昭和五十年八月十四日 御理解第三十四節


 「此処へ参っても神の言う通りにするものは少ない。皆帰ってから自分の良い様にするのでおかげはなし。神の云うことは道に落として仕舞い、我が勝手にして神を恨む様な者がある。神の一言は千両の金にも代えられぬ。有難く受けて帰れば土産は船にも車にも積めぬ程の神徳がある。心の内を改める事が第一なり。神に一心とは迷いの無いことぞ。」


 御神意または御神命と云った様なものを自分の都合で得手勝手にする様なことでは、神の一言を無にしておる様なものですからおかげになりません。
 よく最近では教会の御大祭なんかをいつも変えられる。いわゆる人間を中心にして考えるからです。日曜がよかろう、何日の日には皆に差し仕えがあるから何日がよかろう。それでは先ず御比礼が立ちませんですね。自分が都合、自分の都合、人間の都合で此処も十六日の御大祭が二十日になったり、二十日の大祭が十六日になったり何回も致しましたね。けれどもこれは、止むに止まれん事ではなくてから、善導寺、いわゆる親先生がそうしなければいけんと言われたからしたのです。合楽の意志ではなかった。もうそれは大変困ることになる。けれども善導寺がそう言われるから変えたのであって、合楽の意志じゃない、そういう意味じゃないですね。
 結局は十六日になった訳です。それはね、御神意であり、御神命であったからです。合楽の自分を中心にして変えたのではないです。
 私は今日は神の一言がですね、千両の金にも代えられない程しの御神徳と云うことではない。まあ神の一言を守れば神徳が受けられる程しの信心と云うことは、どういう事かと云うと、思うです
 最近十三日会と云うと御大祭の前に当たりますから、十三日会、これは度度の十三日会に午前中教会の内外の清掃をする様な、まあ奉仕を皆さんがなさいます。そして午後一時から共励会に移るのですけれども、大祭時になると御用が仕終えませんからと云うので、その時間を遅らかしたり、昨日など危ないことで共励の方はしない様に信徒会長ここにお届けに見えましたから、三十分遅らせたと云う。それは仕方がないから三十分遅らせたならば、庭に降りた方達は皆、足を洗うて貰うて上がって貰って共励会の方をさして貰おうと申しましたことでしたが、本当にさせて貰うてやはりさせて貰わにゃいけんなあと云うことでございます。
 後で私、大祭前の十四日と云うもの、コロッと空いとるのはどういう事かと思うのですけども、結局十三日会の日に何もかも片付けようとするからです。
 もう合楽程、御神意なら御神意、御神命なら御神命として頂いているのはないのですけど、皆がそれを変えて仕舞う。これではおかげにならん。やはり十三日会はどこまでも十三日会。
 大体云うなら午前中本気ではまった人達が二十名も朝御祈念の済んだ後から、内外の御用すりゃ片付くのですけど、なんがり、なんがりした御用だから出来ませんのです。昨日なんかは全然外部の清掃なんかは、ほんのまずは出来ていないです。だからいわば、今日せんならん。今日するのが本当です。大祭前の十四日と云う大事な日を一日コロッと空けてあるなんておかしいです。私も改めて気付いた訳ですけどもね。
 そして午前中にいつもの様に清掃さして貰うて、そして予めしといて、そして出来ないまあ例えばそういう様なことの場合でも合楽の場合、いや私の場合は絶対のもんです。共励会なら共励会でもです、どこ何処が何日て決まったら絶対何日にさせて貰う。それこそ降ろうが照ろうがそうです。これはね、私は神の一言は千両の金にも代えられないと云う程しのおかげを頂くためには、此処を徹しなければいけないです。まだ私が善導寺の教会から当時の正義さんのところへ行ってました。もうその頃は私が話に行くことを教会大変喜ばれる様になっていました。と、云うてあちらの共励会を止めるとは言われませんでした。まあどっちがスッキリせんなりに共励会に回りよりました。土居の久富正義さんのところへ、もうその頃は丁度土居あたりは田植の真っ最中でした。ですから今日はこげな風じゃから行くまいと言われたけれども、私はやらせて頂くと云うてまあ行ったんです。
 もう非常に雨嵐の日でした。まだその時分には久富繁雄さんあたりは、私の話と全然知られない時分です。そしてその雨嵐の中でもあちらこちら田植があっとりました。
 ところが私は久富さんところへ着かせて頂きましたら、もうまるきりさなぼりのあったつかの様に、もう皆がそれこそちゃんと足を洗うてよこうておられました。そしてからボタもちが出来たり、混ぜご飯が出来たりしとるわけです。ところが、田植と云うのはもやいでやります。それで何か都合があったのと、それからこんなに雨嵐だからと云うので、今日は大坪さん、早う来て貰うとよかばってん、早う来て貰うごと連絡とっときゃよかったと云うところへ来ました。それでもう、晩の夕方からさせて頂いたことがあります。
まあそういうことを話せば限りが在りませんが、けれどもですね、私は思うのですけども、そういう時に神の一言は千両の金にも代えられない程しの徳になっとったなと自分でも思います。人が何と云うても、御神意、御神命は曲げられないと云う行き方です。
 御神徳の現れる証拠がそういう、その日は田植の真っ最中と云うのに、その日は丁度よこいの標にして待ってあったと云うことです。これはもう、御神徳の現れですね。神の一言は云うならば千両の金にも代えられない。何遍でも一つ事をお伺い直す人があります。右と決まったら右、左と決まったら、いわゆる神の一言と云うのはそうい事なんです。
 昔、光明皇后と云う大変慈悲深い人がござった。千人風呂と云う沢山の人が入れる様な、いわゆる温泉を作られた。そして難儀で医療を受けることが出来ない人達を皆そこへ集めて、お湯につかられて、いわゆる湯湯治が出来る様な設備をなさった。しかも自分は皇后様の身でありながら、そこの云うならばお世話をなさった。
 或日、もうそれこそ体中から膿が流れる様な病人が尋ねて来た。他の者はあげなと入れて貰うちゃ困ると云うたけれども、皇后様はその人を招じ入れてお風呂に入れなさった。
 しかもその化膿しておる。血膿がでておる。そういうのを自分の口をもってそれを吸い出してやられたと言うことでございます。
 ところがその血膿が体から流れておるその病人とばっかり思うておったのは、それは観音様の化身であったとこう云うのです。もう家のお母さんばっかりは八潮のごたる人、同じ職場で働くその長なら長、とてもそりゃ、ろくな奴じゃなか、さながら岩藤のごたると云うでしょう。岩藤と云うのは尾上を大変虐めたお芝居の中に出て來る、いわば悪役なんです。八潮と云うのは仙台萩に出て來るあの正岡を虐め抜いて、そしてあの鶴千代君を毒殺しようとした女です。 私はいつも昔その話を例にとって話させて頂いたけど、八潮のごとあんたは思うとろうけれども、それが神様と私が、あんた方のばばしゃまを人が八潮のごと人は云うけれども、それは神様の化身と私が云いました。 
 例えば、お初と岩藤は仇のごとありますけどです、岩藤がおったおかげでお初は二代目尾上になったじゃないか。仙台萩に出て來る悪人が居ったおかげで正岡は烈婦の鏡の様に今にしてその忠誠の名を止める程しのおかげ、八潮がいなかったら誰だって正岡の名も知らんだろう。
 いわゆる岩藤様のおかげ、八潮様のおかげと云うことになるのだ。もう一事が万事にです、私共がね、皆さんが難儀と思うとるけども、神愛の現れだと申しますでしょう。今日はね、ここんところを一つ分かって頂きたいとです。皆さん分かっちゃおるとですから。
 神の一言は千両の金にも代えられない程の神徳があると云うのは、神様からそういうお知らせを頂いた。そういうお話を頂いたなら私の前に八潮と思うておったのは、八潮じゃない、神様のそれは神愛の現れだと頂く。そういう事を私は神の一言として頂き抜いたところに、成程私は神徳があると云うことはね、そういう事だと思うんです。
 この三十四節は昨日も頂いた。別の面から今日は私は神の一言はです、千両の金にも代えられぬ程しの神徳があると云う事実をね、いわばもう何十年前の正義さん方の共例会の時に私が誰が言うたっちゃ、この田植の真っ最中にお話に来たてんなんてんちゅうなら馬鹿んごと云うだろう。けれども構わん。私は決められた日だから私はやらせて頂いたら、その日に限ってです、かえって早く来て貰う事を待って居られる様な状態であった。それは即御神徳の現れであり、それを行ずるところに、その御神徳はまた頂いて帰ることが出来るのです。
 神徳と云うものは、そんなあなた容易いこつじゃないと思うです。それこそ神の一言をです、あんた家のばばさんは八潮のごたる、岩藤のごたると云うて言いよるけれども、それはあんたをいよいよ育てて下さろうとする御神意、御神慮以外にはないよと一言頂いて帰ったら、ああそうじゃったと云うてその事を御神慮として合掌して受けるから、一言が千両の金にも代え難い神徳と代えて頂くんですよ。私は今日のここんところをね、只頂いて帰る。簡単な事じゃ、御神徳を受けて帰られる筈はないです。
 教祖様が難はみかげと仰った。ですからね、これは神様の一言なんです。例えばそこに難はあっても、おかげだと合掌して受ける行き方を身につけるところに、その身に付いて來るものは何かと云うと、御神徳です、ね。
 私は今日はギリギリの神徳を受けて行く人の信心と云うものを、今日は聞いて頂いた。
 神様は一言で難はみかげと仰るじゃないですか。それを信心しとるのにどうしてこう云う事が続くじゃろうかと。
 昨日も或人が合楽の親先生はまるきりおかげを頂かしきらんごと云う人があった。自分は何十年信心しよるけれども、いっこう金持ちにはなれん。もう私は聞きよってから本当に淋しゅうなりました。
 自分が頂ききらん事は棚に上げといてから、如何にもまあそんな露骨に親先生が頂かせきらんとは云いなさいませんけれども、合楽じゃおかげ頂かんごとなっとるとじゃけとこう云う。他所辺の信者さんは御用しよる人はおかげ頂いちゃる人ばっかり。合楽は幾ら御用頂いたっちゃ、それで二十何年信心しよるばってん、合楽ではおかげ頂かれんと平気で私の前で言うた人がありましたがね。
 果して本当に神の一言をどの位丁重に合掌して、云うならば受けてその人が行きよるかと。これはその人だけじゃありません。
 皆さんの場合だって同じこと。神の一言が千両の金にも代えられぬ程しの御神徳があると云うその御神徳が頂けれる程しの一言と云うのはね、普通の事じゃないです。
 今迄八潮のごと思いよった、岩藤のごたる人と思いよったけれども、それが神様と頂いたならば、それが神様のごと頂けてこそ、御神徳が頂かれるとです。
 教祖様が難は御影ぞと仰ったら、難は難ですよと云う頂方じゃなくてです、本当に難をです、合掌して受けるその位の信心が出来なければ御神徳は頂かれないです。初めて私は神の一言は千両の金に代えられないと云う意味が分かりました。今日、
 そこでです、昨日あたりの此処の御理解を頂くならです、例えば日々の御理解を頂いて、頂いたものは途中で落として仕舞うと仰るが、日々のみ教えを途中で落とすことのない様に、それを例えばやろうと思えばやれる様な、行じようと思えば行じれれることをです、本気で行じよらないとです、いよいよ神の一言で決まる、神の一言で徳が受けられると云うことでの時に、必ずそれを左右致します。 右左にする訳です。そして自分中心の行き方をしようとするのです、ね。
 信心はどこまでも神様本位、だから神様がまた氏子本位になって下さるのです。おかげ頂くと云うことは、氏子本位の様だけれども、決してそうじゃないです。どこまでも神様のお心を中心にした行き方、親先生の言うことを左右にしよってからね、お徳を受ける筈は絶対ないです。
 合楽では例えばです、日々お参りさせて頂いて信心の稽古をさせて頂くならばです、いよいよの時に受けて立たれる姿勢を作るために、日々信心の稽古をしておるのです。
 これが神様の御神徳を受ける程しの事柄の時です。自分を中心にして自分の教会で代えて行くとか、左右にする様では御神徳は受けられません。
 神の一言は成程車にも船にも積めぬ程の神徳があるところのギリギリのところをです、今日は私は私自身分からせて頂いた気がします。信心はやはり徹することです。
 心の中を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのない事ぞとあります。
 神に一心とはどういう様な場合であってもです、今日は自分の都合じゃけん、お伺いしてみてこうと、もう迷うとる訳です。神に一心とはこう頂いておるのだから、それを迷わずに貫き通すところにあるのです。
 神の一言をね、頂き抜かにゃいけんです。それが例えば、代えなければならない時には、此処の大祭の様に、こちらの意志で変えるのじゃない。外部の方から変えさせにゃおかん、変えにゃおかんと云った様な働きもある。どうでも二十日に直せと言われるから二十日に直した。何回か続けた。そしたら二十日は小倉の大祭と云うて、今度は小倉の方から文句が出てきた。だから何日にさせて頂いたら良かろうかと云うたら、日にちがない、ならこの十六日に直さにゃそれこそ、こちらの思う壺ぞ。思う壺ちゅうとなんですが、こちらが思う通りの神乍らのおかげを頂いたけれども、その神乍らな事を守り抜く為には、そういう様な場合もやはりあるけれども、それがこちらの意志でない証拠には、何年後にはそういう事になってきたでしょう。
 お互い沢山ここで共励会がありますが、共励会の日にちなんかは此処では変えません。どんな事があってもやはりその日を例えその日が都合の悪い日であってもそれを変えない。そういう事をです、私は頂抜くと云うことが、神の言うことを、いわば途中落とさずに頂抜くことだと思うです。自分の都合の悪か時は落とす。自分の都合の良か時は頂いた通り。これではね、神の一言を、云うなら左右することですから、千両の金にも代えられない程しのお徳にはなる筈がないです、ね。
 今日は御神徳を受ける、三十四節から頂くところの神の一言は千両の金にも替えられない程しの御神徳があると云うそこんところをギリギリの生粋のところを聞いて頂いたんです。
 皆さんの信心の土性骨と云うか、信心の筋の中にシャーンと通っとかにゃ、本当の良い御神徳の受けられる信心にならねばなりません。ここでいつも言われる一切が神愛と神に一言です。
 これが神愛、これが神愛じゃないことはない。それを神愛で頂いたり、それを親先生がおかげ頂聞きらん様なお話をしたんでは、お徳にはならん。一切が神愛と受ける、受けられない、そこに仕様がある。
 神愛を受けさせて貰おうと思うけれど、自分の信心未熟のためには受けられない。やはり難儀としか受けられない。そこを実は神愛ですけど、頂かれんのですからそこをお詫びしてお参りが頂けれる稽古をさして貰って、そこからああ成程神愛であったと分かるのです。そこから心眼が開けるのです。即それは神徳です。神の一言をね、左右すること、いやていげい守りよりますと、それを例えば時々でも左右したらもう落としたことになりますから、千両の金にはなるけれども、千両の金に代えられない程しの神徳にはならのです。 どうぞ。